赤川が大学を卒業した1980年代後半は、教員の採用数が極端に減少していた時代だ。体育教師を目指して体育大学へ入学したものの募集はほとんどない。そこで活路を見出したのが、スポーツ整形外科で、一般の人々やスポーツ選手を対象に、トレーニングやリハビリテーションを指導する道だった。当時は日本におけるスポーツ整形外科の黎明期。パイオニア的な存在の教授とゼミで出会ったことが、その後の人生を決定づけた。
大学卒業後は、その教授が創設したスポーツ整形専門のクリニックへ就職。プロ選手を含め、日本中からアスリートが通うクリニックだった。そこで3年勤務した後、元同僚の誘いを受けて、近鉄バファローズにトレーニング&コンディショニングコーチとして入団。だが当時はプロスポーツの世界でも根性論がまかり通り、同じ肩書きのコーチは全球団合わせても数名しか存在しなかった時代だ。挫折を経験せずスター選手の道を歩んだ監督やコーチとは頻繁にぶつかった。「我々の指導で怪我から復帰して活躍した選手が引退し、指導者として戻ってくる時代になってやっと仕事がしやすくなった」と苦笑する。
一方では、赤川らの提案を積極的に取り入れた投手が、日本人として初めてメジャーリーグで成功を収めるなど、確実に成果を挙げたことで、医学的な根拠に基づくトレーニングや選手起用法は球界全体へ急速に広まり、今では常識となった。赤川がトレーニング&コンディショニングコーチとしてバファローズで務めた期間は、球団の吸収合併という出来事をはさんで25年に及んだ。チーム成績に応じてコーチ陣が頻繁に入れ替わるプロ野球の世界を考えれば異例だ。
退団後は自宅の近くに会員制のジムを開業し、一般の人々を対象に運動やリハビリの指導に当たる他、少年野球の指導方法などに関する著書も出版。コロナ禍を挟み、2024年4月、ラスイートに入社し、『神戸みなと温泉 蓮』の健康増進部でマネージャーとして勤務している。6月には身体に悩みや不調を持つ顧客をマンツーマンでサポートするパーソナルプログラム『ボディコンディショニング』をスタートさせ早速好評を得ている。
対象がプロ野球選手から一般の人々に変わっても、やるべきことは変わらない。「健康上の問題で生活の糧や人生の楽しみを失いかけた人々が、再びそれを取り戻す姿を見ること。それがこの仕事の醍醐味です」。しかしそのためにはまず、悩みを抱えて相談に来る人の心を前向きに変えることが不可欠だと断言する。「心が前向きにならなければ身体は動きません。リハビリのメニューやトレーニングのメニューは二の次。相談者と向き合い、考え方を変えた先にある未来の姿を伝えられれば、大体は表情が明るくなります」。
健康増進部では赤川がほぼ最年長。親子ほど歳の離れた同僚もいるが「みんな、真面目で人当たりが柔らかく、優しい。スタッフ間でカバーし合って働きやすい環境」と目を細める。
今後は後進の育成も年長者かつマネージャーである自身に課せられた課題だと自覚する。「私は長年の経験があるから好きなことをさせてもらっていますが、若い子もそれぞれ知識や資格を持ち、一生懸命頑張っています。それぞれの長所を活かした仕事にどんどんチャレンジできる環境を作っていきたい」と抱負を語る。
そんな赤川から若い同僚たちへ、機会があれば話すことがある。それは、自分が幸せでなければ、笑顔で接客することはできないということだ。「自分の機嫌は自分で取る。それができなければ相手の心を変えることもできません」。プロ野球という華々しい世界を離れた後、苦しい時期を過ごす中、一念発起し様々な勉強をしながら行き着いた心境だ。「若い同僚に言いながら、自分自身にも言い聞かせている」と照れたように笑う赤川。「健康づくりや体力づくりを通して、人々の幸せのお手伝いをしたい」。そんな思いを共有する仲間とともにさらなる成長を目指す。
健康運動指導士資格保有
1992年~1998年
近鉄バッファローズトレーニング&コンディショニングコーチ
1999年~2004年
大阪近鉄バッファローズトレーニング&コンディショニングコーチ
2004年~2015年
オリックスバッファローズトレーニング&コンディショニングコーチ
2023年
ラスイート入社